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信玄の死はストレスに起因していた?

史記から読む徳川家康⑲

「肺肝を苦しむにより、病患たちまちきざす」(「御宿大監物書状」)

 

411日未の刻から信玄公はご容態が悪化され、脈がことのほか速くなられた。12日夜亥の刻には口の中にできものができ、御歯が56本抜けて次第に衰弱された。もはや死脈をうつ状態となり、信玄公は御覚悟なされた」(『甲陽軍鑑』)

 

 死因は胃がんか胃潰瘍との見方がある。なお、『甲陽軍鑑』によれば「工夫積もって心くたびれ候」と主治医が診断したと記述されている。つまり、精神的なストレスを抱えていたために病を発症したらしい。亡くなった場所は信濃国駒場(長野県阿智村)が有力視されている(『当代記』)。

 

 信玄は自身の死を3年間は隠すよう指示した(『甲陽軍鑑』)とされるが、同月25日には信玄の死を推測する書状が謙信(けんしん)の家臣である河田長親(かわだながちか)のもとに届いている(「上杉家文書」)。

 

 徳川家康がいつ信玄の死を知ったのかは定かではない。『徳川実紀』によれば、「敵ながらも信玄が死は悦(よろこ)ばず。惜しむべきことなり」と述べたようだが、いずれにせよ、同年59日、家康は駿河に侵入し、駿府城下まで攻め入っている。所領の奪還に動いたのは、どうやら武田家に何らかの異常事態が起こったことを知ったからのようだ。信玄死亡について半信半疑だった武将たちは、家康の振る舞いを見て確信に変わったという(「赤見文書」)。

 

 同年73日、義昭は槇島城(まきしまじょう/京都府宇治市)に入城し、再び信長に反旗を翻した(『兼見卿記』)。いずれ義昭が挙兵することを予測していた信長は、同月7日に入京。同月16日には義昭の籠(こ)もった槇島城を包囲し、同月18日に攻撃を開始した(『信長公記』)。

 

 四方より攻め立てられ、火を放たれると、義昭は降伏。信長は降伏を受け入れ、命を奪うことはせず、京から追放することとした。羽柴秀吉(はしばひでよし)を警護役として、河内国若江城(かわちのくにわかえじょう/大阪府東大阪市)に義昭を送り届けている(『信長公記』『兼見卿記』)。こうして室町幕府は事実上、滅亡した。

 

 同月19日、家康は本多忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)に命じて三河の長篠城(愛知県新城市)を攻撃(『三河物語』『松平記』)。長篠城は武田氏の三河攻略の拠点となっていた城だったが、武田勢が甲斐に引き上げたため手薄になっていた。勝頼は長篠城に援軍を派遣して対抗している(『当代記』)。

 

 同月28日に、元亀から天正に改元された。

 

 同年812日、織田軍は浅井氏の援軍として近江に出陣していた朝倉義景軍への攻撃を開始。翌13日に義景は越前へ撤退を始め、18日には一乗谷(いちじょうだに/福井県福井市)へ退いた(『信長公記』)。追い詰められた義景は、20日に切腹する(「小川文書」)。

 

 同月27日、信長の命で秀吉が小谷城(おだにじょう/滋賀県長浜市)を攻撃。浅井長政を自刃(じじん)に追い込んだ(「乃美文書」)。長政の首は、洛中洛外でさらすために京に送られたという(『武家事紀』)。

 

 同年98日、家康は長篠城を陥落させた(「三川古文書」『当代記』)。こうして、信玄の死によって織田・徳川ともに窮地を脱した。ここから家康は、武田氏に奪われた所領を取り戻すための戦いを本格化させることになる。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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